1929-1980 デンマークのオスターヴゥローに生まれる。1952年、コペンハーゲン工芸学校を卒業。フリッツ・ハンセン社に入社し、1953年まで勤務。1952年から1956年にかけて、 コペンハーゲン工芸学校夜間コースの講師を務めた。1955年、コペンハーゲン王立美術アカデミーで教鞭を執る(1976年まで)。その間もエリック・ヘアロウ、パレ・スユエンソンの事務所に勤務し実務と教育の両立を図った。ハンス・J・ウェグナーの事務所に勤務していた時に知己を得たコル・クリステンセン社の創業者E・コル・クリステンセンと家具の製造・販売において共働。1955年に『PK-22』を発売。『PK-22』は金属製の脚部分の上に皮・藤の座面が載った椅子で、ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナチェアからの強い影響が伺える椅子である。1956年、E・コル・クリステンセンの紹介でラングステッドに自邸建設のための土地を取得。自邸は妻のハンナ設計によるもので、ケアホルムは自邸のための家具のデザインを始める。こうして製作されたのが『PK-38』『PK-54』『PK-9』『PK-1』など10種類の家具である。1960年、第12回ミラノトリエンナーレにおいてデンマークパビリオンの展示デザインを担当。1976年から1980年にかけて、コペンハーゲン王立美術アカデミー学長に就任。1980年に肺がんにより死去。51歳。